【皇室典範改正】旧宮家は「600年前に離れた一般人」は本当か?その①【旧宮家養子案】

旧宮家

旧宮家の男系男子を皇族の養子に迎える案(以下「旧宮家養子案」または「養子案」)が改正皇室典範により法制化される見通しとなっています。

旧宮家養子案に反対する意見

旧宮家養子案に反対する立場からは、以下のような意見があります。

平成17年(2005)の「皇室典範に関する有識者会議」報告書では旧皇族・旧宮家系男系男子を皇族にする案について、
旧皇族は「既に60年近く一般国民として過ごして」おり、当時の天皇との共通祖先は「約600年前の室町時代」にさかのぼる遠い血筋だとして、国民の理解と支持を得ることは難しい、という趣旨で否定しています。

また、令和7年(2025)3月10日の衆議院資料では、立憲民主党は「国民の理解がほとんどない」とし、日本共産党は「到底、国民の理解は得られない」、「旧皇族の子孫から国民の権利を奪うこと、600年以上も遠い血筋を遡ることなど、憲法に照らして重大な問題がある」と反対しています。

⭐️参考
皇室典範に関する有識者会議 報告書(内閣官房、PDF、平成17年11月24日)
「皇族数確保のための第2案『皇統に属する男系男子を養子に迎えること』」に対する各党・各会派の意見の要点(衆議院、PDF、令和7年3月10日)


反対派の論点は3つに分けられる

1つ目は、「600年も離れているから血筋が遠い」論

2つ目は、「80年近く一般国民として生活してきた」論

3つ目は、「国民の理解・憲法14条(法の下の平等違反、門地差別)」論

今回は、この1つ目の論点について反論をしていこうと思います。


「600年も離れているから血筋が遠い」論

まず事実

現皇室、つまり第126代天皇である今上陛下と、旧宮家の宗家である伏見宮家の父方をたどっていくと、最初の共通祖先としてつながるのは第3代伏見宮家当主の貞成さだふさ親王(後崇光院)です。

第101代称光天皇の系統が断絶したため、宮家から皇位継承者を出し、即位したのが第102代後花園天皇です。後花園天皇の即位が正長元年(1428)のことなので、令和8年(2026)から598年前、つまり約600年前ということになります。

およそ600年前に、伏見宮貞成親王の子である後花園天皇の系統と、第4代伏見宮・貞常さだつね親王の系統が、15世紀前半の室町時代に分岐しました。

皇室は存続し、第126代の今上天皇に至る一方、伏見宮家を宗家とする11宮家は昭和20年(1945)の敗戦を経て、2年後の昭和22年(1947)10月に皇籍を離脱することとなりました。

世襲親王家の存在

現皇室と旧宮家の男系共通祖先は、約600年前に系統が分かれたことは事実です。

しかし、この事実は、皇統の本流と傍流たる宮家が600年間何の関わりもなかったという話ではありません。
伏見宮家の歴代当主は、代々の天皇または上皇の猶子ゆうし(格式を高めるための名目的な親子関係)(または養子)となり、皇統と宮家は互いに近い関係を保っていました。

猶子として「天皇の子」とみなされた人物に「親王宣下」を行って、宮家当主の地位を代々継承していきました。伏見宮家は代々にわたり、このように親王宣下を受けてきたので「世襲親王家」と呼ばれます。

猶子とは

猶子(ゆうし)は「なお子のごとし」という意味で、養子のように実際に家を継がせるというより、有力者の子分・後見対象・格式を高めるための名目的な親子関係です。
養子は、より強く実子に近い扱いを受けます。

表:歴代伏見宮当主の猶子先・養子先

時期伏見宮当主の代当主の名前猶子(養子)先内容
応永32(1425)3代貞成さだふさ親王後小松上皇の猶子後小松上皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
文明6(1474)5代邦高くにたか親王後土御門天皇の猶子後土御門天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
永正元(1504)6代貞敦さだあつ親王勝仁親王、のちの後柏原天皇の猶子勝仁親王の猶子となり、親王宣下を受ける。
享禄4(1531)7代邦輔くにすけ親王後奈良天皇の猶子後奈良天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
永禄6(1563)8代貞康さだやす親王正親町天皇の猶子正親町天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
天正3(1575)9代邦房くにふさ親王正親町天皇の猶子正親町天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
慶長4(1599)10代貞清さだきよ親王後陽成天皇の猶子後陽成天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
寛永3(1626)11代邦尚くになり親王後水尾天皇の猶子後水尾天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
慶安2(1649)12代邦道くにみち親王同上同上
万治3(1660)13代貞致さだゆき親王同上同上
元禄8(1695)14代邦永くになが親王霊元天皇の猶子霊元天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
宝永6(1709)15代貞建さだたけ親王東山天皇の猶子東山天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
寛保3(1743)16代邦忠くにただ親王桜町天皇の猶子桜町天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
延享2(1745)18代邦頼くにより親王桜町天皇の猶子桜町天皇の猶子となり、翌延享3年(1746)に親王宣下を受ける。
寛政9(1797)19代貞敬さだより親王後桃園天皇の猶子後桃園天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
文化14(1817)20代邦家くにいえ親王光格天皇の猶子光格天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
嘉永元(1848)21代貞教さだのり親王仁孝天皇の猶子仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。
万延元(1860)ごろ22代貞愛さだなる親王孝明天皇の養子孝明天皇の養子となる。のち伏見宮家に復帰し、伏見宮家を継承する。

このように、当代の天皇との猶子・養子関係は、室町時代から江戸時代末期まで、幾度にもわたって行われてきました。この事実は系統が600年離れているという数字だけで単純にその関係性まで断じることはできないでしょう。

宮家と皇統は何度も姻戚関係を結んできた

江戸時代から明治時代、また昭和の戦中期には、天皇の皇女(内親王)が宮家当主の配偶者となった事例が多くあります。

霊元天皇皇女・福子内親王

元禄11年(1698)、霊元天皇皇女の福子ふくこ内親王が、第14代伏見宮・邦永くになが親王に嫁ぎ、第15代伏見宮・貞建親王を産んでいます。これは後の旧11宮家の血統に、霊元天皇の血が入る重要例と言えます。

東山天皇皇女・秋子内親王

享保4年(1719)、東山天皇皇女の秋子内親王が第15代伏見宮・貞建親王に嫁いでいます。

中御門天皇皇女・成子内親王

寛延2年(1749)、中御門天皇皇女の成子ふさこ内親王が第2代閑院宮・典仁すけひと親王に嫁いでいます。ちなみに現在の皇室は典仁親王の直系でつながる男系子孫です(ただし、成子内親王は光格天皇の母ではない)。

表:明治天皇・昭和天皇の皇女たちと宮家とのつながり

時期内親王嫁ぎ先特記・備考
明治41(1908)昌子まさこ内親王明治天皇竹田宮恒久王長男は竹田宮恒徳王。
明治42(1909)房子ふさこ内親王明治天皇北白川宮成久王
明治43(1910)允子のぶこ内親王明治天皇朝香宮鳩彦王朝香宮鳩彦王は久邇宮朝彦親王の第8王子。
大正4(1915)聡子としこ内親王明治天皇東久邇宮稔彦王稔彦王は戦後初の総理大臣にして唯一の皇族の総理。
昭和18(1943)成子しげこ内親王昭和天皇東久邇宮盛厚王昭和天皇の長女が東久邇宮家に嫁いだ例。

このように、皇統・皇室と宮家との関わりは猶子・養子関係だけでなく、皇女と宮家当主との姻戚関係を結ぶことにより、関係の接近を図っていることが分かります。

昭和天皇の皇后は旧宮家出身

昭和天皇の皇后である香淳皇后は、旧宮家である久邇宮家の出身です。宮内庁は次のように説明しています。

香淳皇后は、明治36年3月6日、久邇宮邦彦(くにのみや くによし)王の第1女子として東京・麻布でご誕生になりました。御名を良子(ながこ)と称されました。

大正13年1月26日、当時の皇太子殿下(昭和天皇)とご結婚になりました。大正15年12月25日、大正天皇の崩御により昭和天皇が即位され、皇后となられました。

昭和天皇・香淳皇后(宮内庁)

この事実は非常に大きく、今上陛下は旧宮家である久邇宮家の血を継いでおり、上皇陛下は久邇家の現当主といとこ関係にあることになります。


まとめ

旧宮家と現皇室の系統は「600年前に分岐した」ことは事実です。
しかし、伏見宮家とそこから分立した旧11宮家は、その600年間を皇統・皇室と無関係な一般家系として存在していたのではありません。

歴代当主は天皇の猶子となって親王宣下を受け、世襲親王家として皇統の一角を占めて皇統断絶に備え、また、内親王を妃に迎えるなど、皇統本流との関係を維持してきました。

近代においても、久邇宮家の良子ながこ女王が昭和天皇の皇后(香淳皇后)となりました。香淳皇后を皇室の記憶として持ち、共有している世代もまだ国民の中に多いことと思います。

したがって、男系の分岐時点だけを取り出して「600年離れているから一般人と変わらない」と断じるのは、その中身を無視し、単純化しすぎていると思います。


次回の記事

次回は、「80年近く一般国民として生活してきた」論について取り上げていこうと思います。
更新をお待ちください。

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